これより、すべて2007年当時の記述です。

4日目/サラエボ(2007年11月19日)

「石や~~~き芋~お芋~~~」の声に、5時ごろ目が覚めた。

窓を開け、耳を澄まして聴き入ってみるが、やはり、あのトーンに似たものが聞こえてくる。

 

後に泊まったザグレブの宿に置いてあったガイドブックで知ったのだが、モスク(イスラム教の礼拝堂のこと)からの祈りを呼びかけるアザーンだったみたい。

赤子を深い愛で抱く母の姿を連想するような、心地いい声色だった。時をならす鐘の音も聞こえる。。。

 

旧ユーゴは「ヨーロッパ唯一の東西文化の混合地帯」 といわれたそうだが、イスラム教、カトリック、東方正教会、ユダヤ教、と、わずかな土地に多宗教、多民族が共存するバシチャルシァに佇むと、混合した文化が醸しだすオリエントな雰囲気を肌で感じる。

 

宿から見える朝のバシチャルシャ広場。あのモスクから聞こえてきたのかな

 

サラエボの旧市街は、オスマン帝国支配時代に多くのトルコ風建築物が建てられ、オーストリア=ハンガリー二重帝国支配時代にはヨーロッパ風建築物が建てられた。

第一次世界大戦・第二次世界大戦とも戦禍を免れたため、トルコ・欧州文化が融合した不思議な雰囲気をしている。

宗教や人種などの単位ではなく、まったく自由自在に協力しあい、競い合ってきたそうだ。

 

だが、20万人以上もの死者を出した、3年半にわたるボスニア紛争の結果、もともと混じり合って暮していた3つの民族(ムスリム人、セルビア人、クロアチア人)はお互いの支配地域ごとに別れて住むことになった。

ボスニア紛争時のサラエボ包囲が解かれると、ボスニア最大のモスクをはじめとした傷ついた宗教施設の復興に努め、今もその川岸には多民族、多宗教が融合している。

 

 

職人街である狭い路地を歩いていると、銅細工の店が連なり、銅板を打つ音がコンコ~ンときこえてくる。

ずらりと並ぶ、軒の低いお土産物屋には、銅製のトルコ風食器や置物などが売られ、バザールには、トルコ風の絨毯やら布が吊られている。
その隣では、チョコレートが 「ワタシ、美味しいわよ」とウィンド越しに誇らしげにアピールする。

ここはヨーロッパなのか? 中近東なのか? まさに東西文化の交差点だな。
様々な文化が同居する旧市街は、散策していて飽きることがなかった。

 

銅細工の店

 

バシチャルシャの街並み

 

昔ながらのスーパー

 

朝食は8時からだったので、8時10分ごろレストランに行った。

うん? 開いてる? まだかな?
どっちだろう? と感じる、微妙な開き方をしてたドアを開けきり中を覗くと、お姉さんがいた。

「グット・モーニング♪」
「ブレック・ファースト オーケェ?」

ときくと
「OKよ♪」

 

薪ストーブが焚かれているすぐ前のテーブルにつき、食事を待つ。

ひとり、また ひとり、お店の従業員らしき人がやって来ては厨房に入っていく。そして、「ねぇねぇ聞いて~~昨日あの後さぁ……」なんて言ってるのかな、楽しそうにお喋りしている。

食事の用意はこれからか? 30分ほどしてやっときた。
「今」を大切にしているな。

 

 

バシチャルシァにある旅行会社「Centrotrans Bus」にて、明日のモスタル行きのバスチケットを買った。

その乗り場となるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦バスターミナルまでの行き方や所要時間の下見をしたあと、アリ・パシナ・ジャーミヤが建つ5叉路の交差点を北にのぼって、旧オリンピックスタジアムへと向かった。

 

アリ・パシナ・ジャーミヤ

 

5叉路の交差点

 

この交差点から旧オリンピックスタジアムまでは、ゆっくり歩いて約30分。
バシチャルシァの水飲み場からこの交差点までは、同じくスローペースで徒歩約20分。

写真撮りながらだったし、雪道じゃなきゃそんなにもかからないかも。

 

1984年に開催された、社会主義国では初めての冬季オリンピックであったが、今では五輪マークを掲げた塔がポツンと残っているだけだった。

 

5つの輪、肉眼では見えたんだけどね

 

そして、かつてスポーツグラウンドだった場所は、内戦で増え続けた死者を収容するための墓地となり、グラウンドをおびただしい数の墓碑が埋め尽くしていた。

 

見渡す限りの墓、、墓、、墓、、、

 

そして 墓、、、墓、、、墓、、、

 

『地球の歩き方』には、こう書かれてある。

紛争中、犠牲者を墓地に運ぶことすらできず、埋葬する場所もなかったため、グラウンドを墓地とした。砲撃を避け、埋葬は早朝か日暮れ時に行われた、と。

まるで樹氷のように立ち並ぶ墓標をみると「1992」 や「1993」 と数字が刻まれてる。「独立」 と引き替えというわけか。。。

 

複数の言語や文化、社会慣習、宗教、諸民族などが、狭い盆地の中で寛容な精神のもと共存していた昨日が、一部の民族主義者によって、一夜にして崩れていく。

民族の違いがなぜこれほどの冷酷を生むんだろう。

その答えが解からないわたしには、この光景は、戦争エゴが齎す悲しみを物語っているものとしか映らなかった。

 

 

いったん宿に戻って休憩しようとぶらりぶらりと歩いていたが、ウインドウに並ぶおいしそうなケーキに誘惑され、カフェでひと休みした。

 

コーヒーとケーキ

 

わたしはコーヒーを、子どもたちは紅茶を。と、それぞれ違ったケーキをひとつずつ。
どれがいくらなのかはわかんないけど、合計で8KMだった。日本円にして約650円。安い!

 

宿でもひと休みし、絵を描かないと死んでしまう病(笑) の娘は一人になりたく部屋に残り、息子とふたりで、飽くことのない街に再度出かけた。

 

包囲網マップ

 

セルビア系勢力によって包囲されたサラエボは (上図の赤線)、高台にあるセルビア系勢力地から
1日平均1000発もの砲撃を含む銃弾を打ち込まれたそうだ。

砲撃兵の標的は、市場、病院、学校、工場、図書館、劇場、博物館、宗教施設、官公等。
狙撃兵の標的は、動くもの。つまり市民を標的にした。

 

セルビア人狙撃兵がビルの上から一般市民を狙撃した通り、通称「スナイパー通り」を歩き、上を見上げながら渡り、水の確保(内戦当時)のため命からがら渡った橋が架かるミリャツカ川沿いを歩いてみた。

 

サラエボ事件現場となったラティンスキー橋(旧プリンツィプ橋)

 

左の建物は砲撃を受け外壁を残して全焼した図書館。蔵書は灰と化した。修復工事中だが屋根の修復が終わっただけ

 

UNISタワーの修復は済んでいた。宗教施設も復元された。観光収入源である旧市街や目抜き通り沿いの建物も復興した。

だが一方、UNISタワーの数百メートル先には、砲撃力の恐ろしさに身震いした破壊されたままの建物が今もあり、多くの住宅やアパートも、蜂の巣のような銃弾跡をさらけ出したまま。

 

UNISタワー。ここだけまるで“東京”だった

 

そんな銃弾の跡が残る、とある住居を窓越しに覗くと、柔らかな表情をした老夫婦がお茶を飲みながらなにか語りあっていた。

貧しさとはいったい何だろう。。
豊かさとはいったい何だろう。。。

 

完全なる地雷撤去には40年を要するといわれるサラエボの2007年11月は、平穏な日常の中にあった。

 

弾痕残るアパート

 

こちらも同じく

 

費用、泊まった宿

― 泊まった宿 ―

HOSTEL LJUBICICA(トイレ・シャワー共同、朝食付き)

 

― 旅の費用 ― * 1人分。1KM = 82円換算/1ユーロ = 133円換算

コーヒーとケーキ (カフェにて) 2.6KM (約213円)
夕食 (サラエボのハンバーガー) 4KM (328円)
宿泊(3人分/1部屋) 13ユーロ (約1730円)
合計 2,271円

 

 

5日目〜8日目(サラエボ、モスタル、ドブロヴニク、ザダール滞在)はこちら↓

 

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